年代物絵はがき



戦前/戦中を中心とする古い絵はがきを紹介しています。日本の古本屋でお買い求めいただけます。モニタやスキャナの関係上、実物とは色合いが異なる場合があります。

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フランス コートダジュール トゥーロン LA DOUCE FRANCE COTE D'AZUR2018年11月14日 08:03

旧市街の路上/港の一角
旧市街の路上/港の一角
Une rue du vieux quartier/Une Coin du Port

宛名面
宛名面

コートダジュールとは(コトバンクより
フランス南東部,プロバンス地方の地中海沿岸の保養地。マルセイユ南東 22kmのカシスからイタリア国境まで (リビエラのフランスの部分) をさす。背後をモール山地,アルプマリティム山脈南縁に守られ,南に面した海岸は日照が豊かで冬暖かく,亜熱帯性植物の茂る地域を形成。 19世紀初めからニースは避寒地として発展。次いで,カンヌ,モナコ,マントンなど,交通の発達とともにヨーロッパ貴族の保養地,別荘地として発展。特に第2次世界大戦後は訪れる客も増加し,現在では世界でも有名な観光・保養地の一つとなっている。地名は紺碧海岸の意。面積 6878km2。
高知県や島根県ほどの面積です。

トゥーロンとは(コトバンクより
フランス南東部,バール県の県都。地中海沿岸の港市。トゥーロン湾奥の軍・商港で,フランス地中海艦隊の根拠地。造船所,兵器工場,海軍兵学校などがあり,化学工業も行われる。ルイ14世時代に軍港として整備され,フランス革命の際は王党反革命派の根拠地。第2次大戦中ドイツの潜水艦基地となった。16万7788人,都市圏人口43万7000人以上
宛名面に(Var)と記されているのは、バール県の意味でした。

フランス365によると、第二次大戦で町のほとんどが破壊され、60~70年代に多くの高層アパルトマンが建てられたため殺伐とした雰囲気があり、フランス人の町の景観に対する印象はあまり良くないとのことです。街の地理的な作りから…つまり長い、”Tout long”が短縮されて”Toulon”になったそうです。


商品番号:18/11/14-1
価格:1000円

軍事郵便 熊岡美彦画4枚 出征風景/南京鶏鳴寺/中華門外(南京)/農村風景2018年11月13日 09:06

出征風景/回香得葺(南京鶏鳴寺)
出征風景
回香得葺(南京鶏鳴寺)

中華門外(南京)/秋の農村
中華門外(南京)
秋の農村

宛名面
宛名面

熊岡美彦さんについて(コトバンクより)。
1889-1944 大正-昭和時代前期の洋画家。 明治22年3月9日生まれ。大正15年「緑衣」で第1回帝国美術院賞。フランス遊学ののち昭和7年斎藤与里(より)らと東光会を結成。熊岡絵画道場で後進を指導し,新文展審査員などもつとめた。昭和19年10月1日死去。56歳。茨城県出身。東京美術学校(現東京芸大)卒。
軍事郵便絵葉書に関連する情報を拾ってみると以下があります。

・昭和11年に支那・台湾・朝鮮を漫遊(東京文化財研究所
・1938年(昭和13年)、慰問えはがき作製を委嘱される(東京文化財研究所
・熊岡美彦、南京鶏鳴寺、30号、1939年、第7回東光会展出品作(渡辺私塾文庫

南京の2枚は、昭和11年の漫遊時のものでしょうか。秋の農村は、中国の風景にも見えますが、委嘱を受けて描かれたものかもしれません。


商品番号:18/11/13-1
価格:1500円

軍事郵便 中村研一氏筆 臨時陸軍東京経理部発行 3枚(旅館?/廃墟/港と軍艦)2018年11月12日 10:31

軍事郵便 中村研一氏画(旅館?/廃墟/港と軍艦)
旅館?
廃墟
港と軍艦

宛名面
宛名面

中村 研一(なかむら けんいち、1895年(明治28年)5月14日 - 1967年(昭和42年)8月28日)は、日本の洋画家。日本芸術院会員。

昭和15年頃の活動を拾ってみます。
1928年に帰国し、滞欧作『裸体』が第9回帝展で特選を受賞。1929年、『若き日』が第10回帝展で特選を連続受賞。そして、1930年、『弟妹集う』が第11回帝展で帝国美術院賞を受賞する[1]。1931年、36歳にして帝展の審査委員となり、その後も文部省美術展覧会(新文展)、日本美術展覧会(日展)などと改名した官展の審査員を歴任。1937年、ジョージ6世戴冠記念観艦式に参加する軍艦足柄に乗艦して渡英している。

戦時中は、藤田嗣治らとともに、軍の委嘱を受け作戦記録画を制作することとなり、1942年、シンガポールからインドシナへの旅行中に、コタ・バルに15日間滞在し、『安南を憶う』が第5回新文展で昭和奨励賞、野間美術奨励賞を受賞。作戦記録画『コタ・バル』(東京国立近代美術館蔵、無期限貸与作品)が第1回大東亜戦争美術展に展示され、朝日文化賞(後の朝日賞)を受賞。中村が描いたと確認できる戦争画は17点で、これは藤田嗣治の19点には及ばないもののトップクラスの点数であり、「戦争期に画業の一頂点をなした」とも言われている。

1945年5月、東京大空襲により代々木の住居とアトリエを焼失。戦後は、小金井市中町に転居し永住。日展、光風会展を中心に作品を発表し、1950年、日本芸術院会員に推挙された。1958年、日展常務理事となる。画面に感情や情緒などを付加せず、抜群のデッサン力と構成力で写実的な画風を創り上げ、そのアカデミックで堅実簡明な画風は昭和新写実主義を代表するものであった。妻をモデルにした婦人像と裸婦像を多く制作している。(Wikipedia)
昭和12年には軍艦で訪英している。とくに彼の太平洋戦争中の戦争画はアカデミックな描写力によって好評であった。昭和25年芸術員会員となった。戦後は妻をモデルとした婦人像と裸婦像で記憶される他、辛辣な時評や随筆でも知られていた。(東京文化財研究所)

◇戦争画との関連


 大正9年に徴兵された経験があった(翌年、病気のために除隊)。昭和13年4月、上海派遣軍の要請により、前年の上海事変の記録を残すために、従軍画家として南政善、向井潤吉らとともに上海方面に赴く。このとき中村は部隊長を務めている。昭和14年には中国南部に赴いている。昭和17年に陸軍従軍画家、海軍報道班員としてマレーに赴く。昭和13年、藤島武二、川端龍子、小磯良平らとともに朝日新聞社の協力の下、大日本陸軍従軍画家協会を設立する。翌年、陸軍美術協会(会長:陸軍大将松井石根、副会長:藤島武二)に改組すると、同会の中心的人物として活動した。大日本海洋美術協会にも参加している。戦争画の芸術的評価も高い。
 戦争美術関係の展覧会では、昭和14年の第2回大日本陸軍従軍画家協会展、昭和17年の大東亜戦争従軍画展、昭和17年の陸軍省派遣南方従軍画展、昭和18年の陸軍美術展(第1回)、昭和19年の陸軍美術展(第2回)、昭和20年の陸軍美術展(第3回)に出品しており、昭和14年の第1回聖戦美術展、昭和16年の第2回聖戦美術展、昭和17年の第1回大東亜戦争美術展、昭和18年の第2回大東亜戦争美術展に出品している。また、昭和12年の第1回海洋美術展、昭和13年の第2回海洋美術展、昭和14年の第3回海洋美術展、昭和15年の第4回海洋美術展、昭和16年の第5回海洋美術展、昭和18年の第7回海洋美術展、昭和19年の第8回海洋美術展に出品している。昭和19年の戦時特別文展での陸軍省海軍省特別出品にも加わっている。(靖国の繪巻)
これらの絵葉書には薄く書き込まれた文字がありますが、判別できません。一枚目の絵の建物は、普通の民家かと思っていましたが三階建て以上の高さがあり、旅館のような建物だと思われます。


商品番号:18/11/12-1
価格:1000円

軍事郵便 南薫造筆 船倉内の演芸会を覗く 昭和14年2018年11月11日 10:57

船倉内の演芸会を覗く 南薫造筆
船倉内の演芸会を覗く 南薫造筆

宛名面
宛名面

従軍画家としての南薫造氏については、広島県立美術館 研究紀要(pdfファイル)に詳しく記されています。従軍日記も公開されています。

これによると、「帝展文展審査員級以上の洋画家」を対象とする戦跡射精旅行の希望者募集に応募し、1939年3月29日から5月21日まで中国に赴いて、作品を制作するとともに、絵葉書のための素材を描いています。1883年生まれですので、南薫造氏55歳頃です。

南薫造氏らの旅行先は、日本の傀儡政権とされる中華民国維新政府の勢力下にあり、比較的平穏が維持された状況であったようです。

長くなりますが、スキャンした文章を張っておきます。
広島県出身の洋画家,南薫造(1883,明治16?1950,昭和25)は、多くの日記や絵日記を残しており、広島県立美術館では御遺族の御協力の下、資料の公開、整理を行ってきた。本稿における『従軍日記』紹介は、広島県立美術館研究紀要第7号平成16年)掲載の『インド日記』に引き続き、南薫造資料の公開の一連作業として行うものである。
従軍日記は、1939(昭和14)年3月29日から同年5月21日までの約50日間、陸軍省の嘱託として中国 に赴いた際の動向を記したもので、現地を持ち歩いて記した草稿のノー 卜をもとに成立している。草稿冒頭には、次のような説明がある。「此日記帖は現地を持ち歩るいて記したものであるが当突の間に書いたので物事が前後したり、ぬけて居たり、誤字等も多く且つ終り頃は遂ニ他の紙片や 小手帖 へ記したりしたので帰朝後多少訂正、又た他帖のも集めて中支那従軍日記として他の帖に清書した」。
草稿に説明を補い、他への書き付けを追記して完成された1従軍日記は、縦20.8X横15.8cmのノー卜に143ページにわたり横書きで記され、背表紙に「中支那従軍日記」とある。
従軍日記の冒頭によると、南の渡航前年の1938(昭和13)年、陸軍省は「帝展文展審査委員級以上の 洋画家」に対し、中国での戦跡写生旅行の希望を募った。志願した南は、陸軍省嘱託として将官待遇で派遣されることになる。旅行中の交通,滞在費等は全て陸軍支給で、制作費には別途千円が給付された。出発前に、従軍中に得た画題で60号の作品を描き、陸軍省に寄贈することと、絵葉書作成のための素材を提供することを約している。従軍の日時が決定したのが出発の約10日前2。辞令と手当金 を前日に受け取り3、旅行準備も慌ただしく東京を立った。同行者は、小林万吾(1870・明治2?1947・昭和22)と小林の助手で東京美術学校卒業生の鈴木貞三である。一行は3月29日に東京駅を立ち、同日は京都泊。翌日は広島まで移動し、翌31日に広島・宇品港から吉野丸で出航している。4月3日に揚子江に入り、最初の滞在地・上海に上陸。宿泊先は軍の宿舎のあるアスターハウスホテルである。上海で一行を迎えた斎藤肇(大佐)は広島県出身、南と同じ県立第一中学校の卒業生であった。斎藤 は到着当初の近隣案内や、兵站部の上官への紹介など上海での手ほどきを行ったが、同地で実際に一 行の接待や世話役を務めたのは、雨田という一等兵(日記途中で上等兵となる)である。雨田は東京美術学校油絵科予科で応召していたが、制作や視察に出かける一行の行程調整や自動車での送迎、時には美校師範科出の松林義英(広島県芦品郡出身)とともに現場で筆を執るなど4、南等に同行し親交を深めている。一行は滞在地を移しつつ、戦跡や名所などでスケッチを重ねた。日記に登場する写生場所は50か所近くにのぼる。現在確認できる南のスケッチブックは、「従軍寫生」と題したもの(28.2X24.5cm)と、「支那格子」(25. 8X20.7cm)の2冊で5、鉛筆素描の他、水彩で丹念に彩色したものもある。
中国での主な旅程は、4月3日に上海に上陸、同月7日に蘇州に向かい、11日に再び上海に戻って いる。蘇州行には雨田と松林も加わり、南等一行に10日まで同行した。13日に杭州に向かい、19日まで滞在。新々旅館に宿泊し' 金井文彦と池田という藤島武ニ門下の従軍画家と知り合っている。19日に上海に戻るも、一泊したのみで翌日南京に移動、南京ホテルに宿泊。同地では、大半の従軍画家の世話役であるという中根吾一(陸軍歩兵曹長)に会うとともに、漢ロ行きの船を待っていた恩地孝四郎とも顔を合わせている。25日に九江に向けて日龍丸に乗船。船上から蕪湖、馬當鎮、安慶、彭沢の町などを見つつ、28日九江に到着・上陸し、増田屋旅館に入った。30日に星子へ出発。星子では兵站部出張所に寝泊まりし、5月4日に九江に戻る途についた。漢ロへと北上したい南に対し、小林は、 高齢のためか虫害や不充分な食事に消耗し、また風景に関心がわかないこともあって帰国を望んだ。さらに暑さのために疫病の恐れも加わり、漢ロ行きが危ぶまれるなか 一行は翌5日に蘆山に登った。 偕行社という開館直後の建物に宿泊。かつて訪れたダージリンのような印象を受け、宿泊先も快適で あったためか、非常にくつろいだ滞在となったようである。翌日下山し再び九江へ。南が希望していた漢ロ行きは、鈴木が体調を崩したことから帰国が万全と判断し断念。8日に出航する千山丸に乗船し、南京に戻ることとなった。翌日、南京着。宿は前回と同じ南京ホテルである。11日、南京より上 海へ移動、アスターハウスホテルに宿泊。13日、小林は上海丸に乗船し、一足早く長崎へ向けて帰国 の途についた。南と鈴木は16日出航の瑞穂丸という病院船に乗って中国を離れ、18日門司に到着。南 は広島で肖像画制作の仕事があったため、広島駅で鈴木と別れる。数日広島に滞在し、21日に東京に 向けて立つところで従軍日記は終わっている。
文展での連続受賞などにより、南は早くから画壇での地位を認められた。1916(大正5)年の第10回文展から若干33歳にして審査員を務め、以後も文展や帝展で審査員を歴任。1921(大正10)年には戦艦「陸奥」への作品制作を依頼され、1928(昭和3)年には《広島大本営御親裁図》を明治神宮聖徳絵画館に、従軍を志願する前年の1937(昭和12)年には《宮古海戦図》を海軍館に納めるなど、官展での活躍と評価を基盤に、国の体勢と関わるところで制作活動を行ってきた。中国へ従軍するという決断は、 画家生活の上で特に違和感の無い選択だったと考えられるとともに、美術界全体の時流に合致したものでもあった。1937(昭和12)年には、日中戦争の勃発に呼応して、献納画展等が各地で開催されるようになった。陸海軍への従軍を志願する美術家は増加の一途をたどり、戦地に取材した作品も数多く 発表されていく。南より一足早く中国中・南部に渡った洋画家に藤島武二がいるが、従軍日記にみえる藤島に関する記述からは、南が藤島の旅行談を聞いたことが想定されるし、従軍を決意する一つ の契機となった可能性すら考えられるかも知れない。南が55歳で経験した従軍は、時には体調を崩すような多忙な行程のうちに行われた。しかし滞在は予定より延長され、上海や南京などの大都市から、時には前戦にほど近い場所に立ちつつ各地で精力的に制作している。従軍画家としての意識が感じられる一方で、戦争の痕跡生々しい情景を目にしつつも、自然の美や人々の生活環境に対する印 象が多く記されているところに、風景画家である南の特性が表れているように思う。
従軍後の南は、東京の自宅に戻った翌日に陸軍省への帰朝挨拶をすませ、早速に中国で画題を得 た作品に着手。この作品は、同年の聖戦美術展に出品された《戦跡星子》と考えられる 。用務の 一つであった絵葉書用の素材は、同年末に陸軍省に提出しているが 、図版等の詳細は不明である。
本稿では紙幅の都合により、中国での制作活動や周辺状況を示す記述を中心に、一部概要を含めて 日記を紹介する。?年の南の画業が明らかになるとともに、交通や宿泊施設、現地に住む中国や日本の人々の生活についての記述をとおし、従軍画家を取り巻く物理的条件を知ることもできる。同時に、 従軍画家が戦地でどのように見なされ、対応されたのかといった待遇面も浮かび上がり、『従軍日記』 は、戦中を生きた画家の生活の一端を知る上で非常に貴重な資料として位置づけられると考える。

なお、原文には今日では不適切な表現等があるが、当時の時代背景のもとに記されたものであり、 資料性に鑑み、原文のまま掲載することとした。 ―
①4/3上海
②4/7蘇州
③4/11上海 @4/13杭州
⑤4/19上海
⑥4/20南京
⑦4/28九江
南京⑥、⑫
蘇州②
上海①、③、⑤、@ 拔州④
九江⑦、⑨、⑪ 星子⑧
⑧4/30星子
⑨5/4九江
⑩5/5蘆山 ⑪5/6九江 ⑰5/9南京 ⑬5/11上海


商品番号:18/11/11-1
価格:750円

軍事絵葉書 鶴田吾朗氏筆3枚 北京城外玉泉山/帰化城慶凱大橋/最前線の仮眠2018年11月10日 10:02

北京城外玉泉山/帰化城慶凱大橋/最前線の仮眠
北京城外玉泉山
帰化城慶凱大橋
最前線の仮眠

宛名面
宛名面

2018年7月3日にもご紹介した、鶴田吾朗氏筆の軍事郵便です。

鶴田吾朗氏については、新宿中村屋のサイトに詳しく記されています。明治23年7月、東京新宿に生まれながら、写生行脚に65年間の画家生活の大半を費やしたとあります。第二次世界大戦では従軍画家として参加しました。

帰化城は、中国,内モンゴル自治区の首都フフホト (呼和浩特) の古称です。


商品番号:18/11/10-1
価格:1250円

軍事郵便 戴家山 昭和16年晩秋 陸軍曹長 萩山一郎筆2018年11月09日 10:52

軍事郵便 戴家山 昭和16年晩秋
軍事郵便 戴家山 昭和16年晩秋
中支派遣鯨第六八八二部隊戸田隊
陸軍曹長 萩山一郎筆

宛名面
宛名面

戴家山は、杭州市桐廬県の地名。日中戦争(支那事変)関連史跡の「武漢戦跡」によると、1938年(昭和13年)8月に開始された武漢攻略作戦で、第6師団の佐野支隊が、戴家山のトーチカ陣地を突破して漢口市内の一角に突入し武漢一番乗りを果たしました。

武漢(漢口)と杭州は遠く離れており、この辺りの事実関係は不明です。


商品番号:18/11/09-1
価格:750円

軍事郵便 小早川篤四郎氏筆4枚 仲良くお洗濯/陣中にて/泊地/前線にて2018年11月08日 09:16

仲良くお洗濯/陣中にて
仲良くお洗濯
陣中にて

泊地/前線にて
泊地
前線にて

宛名面
宛名面

小早川篤四郎氏の絵葉書きは、2018年6月14日に続き2回目です。

東京文化財研究所には、小早川篤四郎氏について次のようにあります。
明治26年1月6日、広島市に生れた。幼少のころ、台湾移住、同地で兵役前に石川欽一郎に水彩画の手ほどきをうけている。兵役2年を終えて上京し、自活しながら本郷絵画研究所に入り、岡田三郎助の指導をうけた。大正14年第6回帝展に「ジャワ婦人」が初入選となり、その後、第7回展をのぞき、昭和9年第15回帝展まで毎回入選して、12年の第1回文展では無鑑査となつた。また、この年9月、海軍に従軍を許されて、上海方面に出発し、その後も度々従軍して第3回文展「蘇州河南岸」など、戦争記録画の制作発表が多くなつていつた。
昭和12年以降の従軍で上海、蘇州方面にて描かれた作品のようです。


商品番号:18/11/08-1
価格:1500円

軍事郵便 日本兵士と支那小児など、日本軍人と中国の子どもを描いたもの4枚2018年11月07日 09:13

日本兵士と支那小児/愛撫
日本兵士と支那小児/愛撫

輝く東亜の道(民国29年)/勇士の愛撫
輝く東亜の道(民国29年)
勇士の愛撫

宛名面
宛名面

日本軍の兵士と、中国の子どもが触れ合う様子を描いた軍事郵便4枚です。

「輝く東亜の道」の宛名面には「民国29年 5月6日 海浜站」と記したスタンプが押されています。民国29年は1940年。このスタンプは、汪兆銘が日本の軍事力を背景として、北京の中華民国臨時政府や南京の中華民国維新政府などを結集し、1940年3月30日に蒋介石とは別個に南京に樹立した国民政府のスタンプと推測されます。


商品番号:18/11/07-1
価格:1500円

軍事郵便 鉄道隊活躍2018年11月06日 10:19

軍事郵便 鉄道隊活躍
軍事郵便 鉄道隊活躍

宛名面
宛名面

鉄道連隊の歴史(千葉県習志野市)に鉄道隊について詳しく記されています。
鉄道隊は、戦地において鉄道の敷設・補修・運転・破壊に従事した部隊です。人員や物資の輸送を支える役割を担っていました。
 日本陸軍の鉄道隊は、明治28年(1895年)の日清戦争における臨時鉄道隊の編成に始まります。翌年明治29年(1896年)、東京の牛込に鉄道大隊が常設されました。さらに翌明治30年(1897年)には東京中野に転営することとなります。
 昭和6年(1931年)の柳条湖りゅうじょうこ事件をきっかけに、日本の関東軍は満州(中国東北部)を侵攻・占領しました。以後、昭和12年(1937年)には日中戦争、昭和16年(1941年)には太平洋戦争開始と、昭和20年(1945年)まで長い戦争の時代が続きます。
 戦線が中国・東南アジアなどへ拡大し、大量の軍隊が動員されるのに伴い、人員・物資の輸送を支える鉄道連隊も次々に増設されました。柳条湖事件前は連隊は2隊でしたが、終戦時には下記の表の20を数えるまでになります。さらに、連隊以外に、独立鉄道隊など多くの部隊が作られました。
鉄道第2連隊は昭和15年(1940年)に動員されて主力が中国東北部に移転し、津田沼には同連隊の補充隊が留守隊として置かれました。この補充隊は終戦直前に鉄道第17連隊に昇格し、そのまま終戦を迎えました。
この絵葉書は詳細不明ですが、1940年前後の中国東北部の様子ではないかと思われます。


商品番号:181106-1
価格:750円

御陵鎮護之埴輪2018年11月05日 08:47

御陵鎮護之埴輪
御陵鎮護之埴輪

宛名面
宛名面

土人形 武装した人―天理大学付属天理参考館に記事があります。
よろいかぶとを身に付け、大小の刀を腰に提げ、それぞれ矛と弓を持つ、平安時代頃の武装した人を象っています。
明治天皇は東京で崩御しましたが、御陵は遺言に従って京都に築かれました。その際の記録に「山陵には古儀を折衷して御鎮護の御趣旨を以て埴製武装人形四躯を四方に埋葬し給うこととなり…」とあります。さらに「埴製武装人形」は彫刻家の吉田白嶺が制作し、「総高三尺、矛を執れるもの、弓を持てるもの各1雙、すべて中世武将の扮装」の埴製武装人形が明治天皇陵の「御槨(おんかく)に近く四隅に埋められた」と続きます。そして記録には、この2点そっくりの「埴製武装人形」の写真が載っています。当時この土人形は広く話題となったらしく、絵葉書が発行されたり、小型の模造品が販売されたりしました。
この2点は、まさに記録どおりの人形です。御陵に埋めるために作られた人形が館蔵品となっているのは変ですが、必要な数より多く作って、出来のよいものはお墓に埋められ、この2点は残った分だと考えられます。
ちなみに、吉田白嶺は制作にあたって実物の武人埴輪をモデルにしました。そのモデルとなった武人埴輪(群馬県太田市世良田町出土 重要文化財)も、奇しくも当館の蔵品で、常設展示しています。


商品番号:18/11/05-1
価格:750円

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